昭和43年3月28日朝の御理解 ★★★ 御理解に『金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神の杖につけば楽じゃ』・・どうでもこの私どもが楽じゃという事のおかげになってこないと、合楽的おかげになってこないのです。ね。私どもが楽じゃというおかげを頂く時に、神様もまた楽じゃという事になって下さる。そこにその、合楽のおかげ。ね。私共も安心。神様も安心。と言う事になるのです。その為にです。金の杖をつけば曲がる。ね。竹や木は折れる。神の杖につけばとおっしゃるその、神を杖につけばという信心を本気でさせてもらわなきゃならのです。
信心を頂いておるから、『皆神の、その神の杖についておるか』と言うとね、そうでない 場合が多いのです。ね。いよいよ、例えば普通はいかにも「金光様、金光様」で、朝の んなら、四時からお参りをしておるとか(笑い)。日には二辺参っておるとか。その時は確かに神を杖についてるんですけどね(笑い)。まぁ言うなら何でもない時には神を杖についてるんですけれどもね。もういよいよこれからが、「杖が必要じゃ」というように、 山坂にでも掛かってきたり、道悪くなってきたりすると、杖を外してしまう。 ね。すこし言わば難儀な事になってきたり、「そりゃ困ったなぁ」と言うような事になってくると、もう神のなんか杖やらどこえやら忘れてしまって、いわいる、金を杖についたり、いわいるお金に頼ったり、物に頼ったり、神を杖についてない。「一つあの人に頼んでみろう」と言ったように、あの人をたよったり・・ね。「金にものいわせよう」というもう金に頼ったり、ね。言うなら竹や木に頼って、ね。結局はいかにもそれで良いごたるけれども、いよいよになってくるとその竹が折れる、金は曲がる。ね。そういう、(ご?)をお互い繰り返してるのじゃなかろうか。そこに何時までたっても「楽じゃ」とおっしゃるおかげ、また神様も「はぁこれで安心」とこう言うて下さるような 合楽的おかげになってくるのじゃなかろうか・・・ね。ここの所をですね、本気で頂きたいと思う。ね。いよいよの時に一つ、神を杖につかにゃいかんのですよ。ね。
二代金光様、四神様が、小倉の初代の奥様であるところの、おー(みつ?)奥様ですね、お若い時に言うておられますように、「もう金光様、この事だけは、もう辛抱がでけません」と言うてその御本部にお参りしてからその事をお届けしておられます。ね。 他の事なら神を杖につくけども、「この事だけはもう、もう神様(?)この事だけはもう辛抱できん」と言うておられる。その時に四神様がおっしゃておられる、ね。「さぁその辛抱の出来んところを神にすがって辛抱するのぞ」とおっしゃる。ね「もう辛抱がでけん」と言うところを、そこを神にすがって辛抱するのぞと・・・。ねぇ。そこのところを私どもは神にすがらずに、他のものにすがる、他の物に頼る。ね。 「ここまでは御神米とお神酒まで」とか何とか言いよるけれど、いよいよになってくるともう「さぁいよいよ薬じゃ」というとうになる・・・。 ○ここではね、本当のとこ、ほぅー(大きくため息)。神様が「楽じゃ」とおっしゃるようなおかげにはなってこない。自分達も楽だという安らぎの生活に入って行く事は出来ない・・・。本当にあの~一日をここにこうやって御用させて頂いておりますと、もう何人かは、本当にあの、「良つなかろうなぁ~」と思うような、まぁ本当に苦しかろうと思うお取次ぎさせてもらうんですけれどもねー。んー昨日もある教会の総代さん、もう有名なもう昔からのご信者さんでしたが。久留米で大きな商売をしておられるます。娘さんが 東京の方に家についておる人が、先日から主人から怒られて、親子三人で帰ってきた。 すこうし、こうまぁ言うならばノイロウゼぎみですね、もうちょっとした事が気になって気になって、もうそれが悲しゅうて、悲しゅうて一晩中泣きあかしておられる。 その娘さんを連れてから、昨日お参りになっとりました・・・。 話を聞きますと、なるほどその私が聞いたんじゃ一つも苦になる事でもなからなければ、心配な事でもないけれど(笑い)。本人にとってはそれはやはり、その泣きあかさなければならないほどに心配なのですね。★私その事を神様にお届けさしてもうらいましたら、あの、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句がございますがね、それを頂いた。この人は幽霊でものないものを幽霊と思うて、もうそれが怖くて怖くてたまらん。ね。 そこまで行ってもしないで、もう言わば取り越し苦労をしておるという事である。 この世に怖いものがあるはずがない、この世に幽霊なんか住んでるはずがない。そういう一つの確信をもって、その場でまぁ怖がりながらでも行って見ると「はぁ~これは幽霊じゃなかったんだなぁ枯れ尾花だった」という事が分かるように、ね。私どもがどのような例えば難儀を感ずる場合であっても、その難儀から逃れようとせずに、そこんところを推し進めさせて、いわいる、神にすがって進んで行きよりますと、それは枯れ尾花どころかもう それこそ、神愛の言わば固まりのようなものであると。神様が特別に「氏子おかげを受けてくれよ」とおっしゃるその「さぁこれによって信心しておかげを受けてくれよ」とおっしゃるその基であった。という事が分かるのですからね。ところがその不思議にその 「幽霊の正体見たり枯れ尾花という事を頂くんですよ」て「あなたは怖くないものを怖いと錯覚しておられるのですよ」と。そしたら初めてここで笑われました。えーとなんだ、そのお父さんになられるかたがですね「もうこの人の笑顔を見たのは初めて」(久留米の方へ帰って来てから?)。そればってんニコニコ笑いながらでもやっぱり涙を流してそうゆうところを見るとやっぱ涙ぐせがついとんなさるとかもしれませんけれどね。 そんなやっぱ弱気なんです言うならば・・・。それからまた、昨日のあの御理解を一生懸命頂いて帰られたんです・・・。ね。私どもの前には本当に幽霊でもないものを幽霊と思うて、「どうなるじゃろうか」という取り越し苦労する時には、みんなそうなんですよ。その方だけではない・・ね。○その取り越し苦労をしなければならないような時に神にすがるのじゃ。ね。取り越し苦労をする時に(「はぁあの人にんなら一ちょなたんでみろか」?)(笑い)( ? )には手を打っとかにゃいかんのじゃかろうか」と、まぁ自分で、自分で心配をする。ね、氏子が心配をすると神が心配せんですむとおっしゃられる。心配は神様にお任せする。そこにお取次ぎの働きというものがあります。ね。お取次ぎの働きというのは、自分の心配を神様に聞いてもらう、お取次ぎをして頂く。そこで神様にお任せするという気にならしてもらう、御理解を頂いて安心がいくと、そこには神の姿を神の杖を、杖に突いた姿がお取次ぎを頂くそこの中からあるわけ、そのこの中にあるわけなんです。ね。言うならば、お取次ぎを頂くという事は、改めて神の杖を突きなおすという意味なんです。だから楽になってくる・・・ね。その楽になってくるところに言わば おかげを受けるわけなんです。ね。一つのその御理解に・・「天長くして地久しい」というおかげを頂く為に、というような御理解頂いたんですけれどもね、最近はその無限大のあれ(おかげ)に繋がるというような事も頂きますいれどもね、そういうその「天長くして、地久しい」おかげを頂かなければならん為にとか、ね。無限大のおかげ、無尽蔵のおかげを頂く為にというのではですね、やはり条件が合う・・・。そこでね、求められるもの、私どもに神様が、ね。「実意丁寧神信心」とこう言うておられます。ね。実意丁寧神信心を続けさせて頂くうちに、いうなら、『今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ』と おっしゃるように、ね。新たな目が覚めてくる。ね。そこから「神は我が本体の親」と「信心、親に孝行するも同じ事では」というおかげを受けられる・・・。 ★今日私あの神様から、いろいろなお願いをさせて頂いておったら「そういうお願いは、 やはり祈りの中にしちゃなかったんですね」それで神様からその『子ぼ願え』という事を頂いた。それは、「真の御用が出きる氏子にお取立て下さい」という願いを銘々がもたなければならない。「本当の御用が出来ます・・ね、氏子にお取立てください」という、私も願いであると同時に皆さんもそういう願いを持たなければならない。 ね。もう真に真の御用というのが、今まで私が、今私が皆さん聞いてもらいましたね、 ところの信心が成されやらないと、その真の御用という事の目が覚めない・・・。 『今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ』というのは、私どもがこの世に生まれてきてです。ね。段々物心つくようになりますと、名も成したい・・・。立身出世もなおしたい。ね。そういう願いを、まぁ段々あー年をとってくると「は~もう自分はダメだ難しい」もうこれくらいな事で「まぁこれがおかげ」と「まぁこのくらいどんやらこーやら
やって行くようになってからこれでおかげ」と言う風に、感じるですが、やはりあの、 始めそういう願わないものはなかろうとこう思う。名も成したい、立身出世のおかげも頂きたい。ところがです、んならば、よしまぁふが良くて、(なを成したと?)いたしましょうか、ね。「なんなんの大神」と言う風に言われるにいたしましょいうか。ね。またはその立身出世をいたしまして、まぁ立派なお家に住まわしてもろうて、言わば (?)財産が、出来たといたしましょうか・・・・ところがその名を成したり、立身出世をする為に、自分はそこに生きがいを感じておったという人達がです、果たしてこういう生き方で良かったであろうかと言うて、振り返って見る時にもう遅い。 これではなかったと気が付いても遅い。ね。本当の事を言うとです、私どもはこの世に生をうけてきて、この世にお生かしのおかげを頂いておるという事は、この世に真の御用をしにきておるのだという事を分からしてもらわないかん。まぁ昔と人がよく「もうこの世には働き来とると」とこう。ね。ところがなるほど一生懸命それこそ(?)出るように働いたけれども、しかしはたを楽させる事の働きにはなっていなかった。自分が立身出世。自分が名を成す為に働いてきただけであった、自分が、ね。働いてきた事が、はたを楽させるような事にはなってなかった・・・。○私はですね、この世にお互いが生まれた来たという事のですね、もう究極その目的はです、ね。真の御用をさせて頂く為にこの世に生まれて来たんですよ。神様はその為に私をこの世に送り出してごさるとですよ。 だからそこのところの意味が分かってそれに答えます、まつえる信心生活というか、真の御用ができるおかげを頂いて始めて、神様の喜びにもなりゃ、神様のご信用が頂ける。 あの世にも持っていける、この世にも残しておけるというお徳になってくるうのです。 ね。皆さん『真の御用』。ね。真、本当のごようができる。真の御用・・・ね。ですから皆さんがですね、心の芽をパッと開かれると同時にです、ね。開かれるともう今日から 真の( ? )ができるとですよ。お百姓しとる人がおりゃお百姓の中に。お商売をしておる人はお商売の中に、ね。家庭で家の御用をしておる婦人は、その中に真の御用とゆうのはあるのですよ。ね。ところがこの真の御用というのがですね、もう神様の御用と思うてさせて頂きよります。草をとるのも、物をおごるのも。もう神様の御用とさせて頂いております、というその御用の内容というものがです、実は問題なんです。そこで私が申します、『実意丁寧神信心』をいよらなければね、本当の天地の開ける音を聞いて目を覚ませ、「これこそ御用だ」と言う事になってこないのです。 その点私はそのーなんですかね、今でもやはり日本一的教会ですよね、あの大阪の玉水という教会、教会長は素晴らしかったと思うですね、その表現が素晴らしいです。
その信者にそれをもう皆にそれを思い込ませてござる・・ね。あちらは、大阪の町はほとんど商売人ですから、商売人が多いようです。それで( ? )せん「もう倒産の寸前でございます」と言ったような人たちがお参りが多いんですよね、でその人たちが皆おかげを受けて行くわけ、そしてあの勢い。日に何千にというお参りがあった(笑い)もう( ? )徹しての、参拝が続く、朝の御祈念なんかに参りようとですね、もうここで御祈念しよると後ろの方でお賽銭箱でジャラジャラジャラジャラというて、ず~と音がしとるそうですよ(笑い)・・・この頃(渡辺?)先生があちらにお参りをされてからですね、もうほかん事はたまがらんじゃったばってあのお賽銭の音だけにはたまがった。 ( ? )後ろの方でジャラジャラじゃラ・・いうてそこ、ここへんなたわごとして ジャラジャラじゃラいいませんけれどね(笑い)(?)さんあたりはですね、もうず~とジャラジャラじゃラ後ろでゆうとるそうですよ。というほどのご比例が輝いたと言う事がです、真の御用に目覚めさせてござるからですね、ってそれをならどういう風に表現してござるかというとね、ね。例えてまぁ言うとですね、「もう今月はもういよいよいけません」というようなお願いに来るとです、とにかくさっさとおらして頂いてからね、決してね、そのお賽銭箱じゃないけどなんち言うか(笑い)金庫たいね、商売人で「金庫の中を( ? )見ちゃならん、もう入れるばーかりしとけ、そして金を取りに来たなら もうそれから、もうこりゃ後からにしようなんて思わずに、あるならあるだけ払うとけ」もうこの生き方じゃった、人間心使わせなさらん。ね。いわいる神ながら、ざっさと金庫の中にはお金は入れるだけ、そしてざっさと取りに来たら払うだけ。「先生、おかげを頂きまして、もう今年、今月だけはもういっちり、赤字でもない黒字でもないけれども、 おかげを頂きました」と言う人たちが沢山でけたんですね。ほらもう神様の働きの素晴らしさには驚いてしもうて、こりゃもう金どん勘定しよったっちゃできんと(?)。 第一人情捨てさせてござる。人間心というのは、いかに人間心というものがおかげにならんかという事が分かります・・・ね。次に言うておられる事はね「さぁ今日からは」と言っても始めの者からそうゆう風に言うておられるんですね、そういう風なお願いに来ると、「今日からは、もう神様がご主人ぞ」と「お前のところに参ってくる」(?)「お前のとこに来るお客さん、ね。神様がお引き寄せになるお客さんぞ」と「主人がご主人ぞ」と 「主人は番頭ぞ家内は女中ぞ」とこう言うておられる。ね。もう私はあの今日改めてその事を素晴らしいなぁと思うんですね。 ね。「主人がご主人ぞ」と、あっあのー「神様がご主人ぞ」と、「主人は番頭さんぞ」と 「家内は女中さんぞ」と、そこで番頭の働きが良ければ良い程に、女中の働きが良ければ良い程に、「神様は給料をはずんで下さるに違いはない」と言うのが、湯川先生のこれがもう一本槍じゃった。ね、だから今日私が言うように、いかに実意丁寧にならなければ、給料がおおきくならんかと言う事になる訳なんです。神様をいかにだい、神様のお引き寄せ下さったお客様として、大事にしなければならんかという事が分かってくるわけなんです。女中さんはもうこの家が立ち行くと思うてそれこそ、野菜のはしげでも粗末にしちゃならん、ね、女中さんが(?)するような事じゃその家はもてん。本当にご主人に喜んで頂く為に一生懸命の( ? )の御用を家内がするようになる、ね。主人は店の番頭さんとして一生懸命に働きに行く。そして集金が集まったらご主人に対して、「今日は、これこれ、どこどこの集金が集まりました。今日は(?)ましたけれども、私の(?)為に、ね。集金が思うようによりませんでした」それだけで良かっちゃけん。 自分で集金出らじゃったち言うて心配する事はいらんち。(笑い)ね。「今日商いが少なかった」と言うてです、ね。心配する事はない、ただ「神様に私どもの働きが足りなかった」と言うて、ご主人にお詫びするだけなんだ。というてならどんどん売れたからと言うてです、「私がしたけん」ではなくてから、「今日はご主人、おめでとうございます」と言う気持ちになれとおっしゃった。神様に「今日は神様おめでとうございます、今日は、あなたのお店が大繁盛。今日もこれだけの売上でございました。とご主人にお祝いの言葉をのべる気持ちになれ」とこうおっしゃっる。これは商売だけにあてはまる事じゃないです。一切の家庭の上にも、それがあてはまるのですよね。そう生き方なの、そう生き方。それをここでは今日私は『実意丁寧神信心』をせなければならん。ね。実意丁寧神信心をさせて頂くところにいわいる、ご主人である神様から、「はぁこの番頭は見込みがある、この番頭にはいくら給料だしたっちゃぁよか」と言うような働きになってくるのぞと言う。ね。そういうおかげを頂いてくるもんですからです、ね。いわいる神様の言わば、ご主人の心にそうような番頭さんであり女中さんにならせて頂いてくるところにです、そこから「自ずとなるほどこの御用、こういう御用のありかたにさえなっていけば、もう人間は、徳も受けられる、幸せにもなれるんだ」という( ? )が、天地の音を聞いて目が開ける、そこで実意丁寧神信心を本気でさせてもらわなければ、ね。『今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ』本当言うたら今日只今からでも目が開きさえすれば、そういう真の 御用が出来るのだけれども、さぁその真に目が開けれる、「ただ私は神様の御用と思うてさせてもらいよります」ぐらいな事とじゃダメなんだ・・・ね。皆さんどうぞひとつあの本当に「真の御用ができます氏子にお取立て頂きたい」と言う願いを本気でもたなければいけません。ね。その為に私どもが本気で『実意丁寧神信心』をさせて頂かにゃいけません・・ね・・。心配がある時には、ね。「ご主人今日は( ? )為にお詫びした神様・・・ね。今日はどこどこに借金の断りにいかなければなりません。今日の売上がどうもまずかった。借金払いがでけません。神様借金払いがでけずに(?)すいません」 「ならお前はご迷惑じゃけれどちょいと断りに行ってきてくれ」とご主人が言われるのですから、ね。そこんところ実意丁寧にご主人からそういう風に頼まれらと思うて神様を前に立て自分は後ろからお供して行くような気持ちで実意丁寧に「実は今日お払いする約束でございましたけれども、今日はこうこう言う訳でお払いもできませんけれどもすいません」と言うて実意丁寧に相手に断りを言い、ご主人からの命令で行くのですから、自分の事のように、ね。情けない思いせんですむのです。ね。そういう生き方を湯川先生は、ね。そういう風に解かれて、実意丁寧を信者の氏子、信者氏子に求められた。そして今天地の開ける音を言わば、聞かせ、目覚めさせておられる。それがその玉水教会の御比例の元になっておるという事なんです。(?)一つその教会、教会の生き方がございますから、 必ずしも、その、んなら「あ~今日は湯川先生のお話を聞いたけん、今日から家も金庫に金は入れるばーっかりで数えまい」(笑い)フッフッフというような事これはよその教会の事ですからねその通りのおかげを頂くという事はありません。ね。ただ天地の開ける音を聞いて目を覚ませ、覚まさせる方法として手段として玉水さんでは「神様がご主人ぞ、主人は番頭ぞ、家内は女中ぞ」と言うように表現をされて、ね。そこで給料が上げてもらいたいならば、女中の勤めが、番頭の務めが本当に実意丁寧にならなければならないように教えられる訳なんです。ね。ここで私がただそれは例話であってここではそうじゃない。ね。ここでは私が日頃解かして頂くように、成り行きを尊ばせて頂くというような事でも、ね。実意丁寧神信心と言う事でもやっぱり同じそれに繋がる事なんだ。ね。お金を数えちゃならんというのじゃない。お金は数えても良いけれども心配するなという事なんです。「あーたこりゃもう今年、今月はいくら払う(?)」もうその心配するから実はおかげにならんのですわ・・・ね。そこにその例えば、( ? )です、もう金やら、竹やら、 木やら杖につこうとするからおかげにならんのです。その時こそいよいよ神を杖につけば楽になれるのだけれども、それを他のところへ持っていく、あの人のせいにする、 このせいにするからおかげにならんのじゃ。ね。私どもの働きの足りない事をお詫びの気持ちにはならずに、そういう事になったんではおかげにならん。ね・・・夕べの御理解の中にも、ね。★もう十六~七年前に頂いた御理解だったでしょうかね。 まだ久保山先生も久留米の三橋先生も御在世の頃です・・・善導寺の久保山先生の御信心を神様が「本調子」とおっしゃった。久留米の三橋先生の信心は「三下がり」とおっしゃった。秋永先生の信心を「二上がり」とおっしゃった。これは三味線の調子が、 こう三つあるんですね。「二上がり、三下がり、本調子」という、確かに久保山先生は、本調子的信心をなさいましたがね、朝の例えば私の御祈念前から出て来て、そして終日を御用されるといういわいる、本調子。最近の秋永先生なんかはその二上がりの信心にもう一つこの本調子が加わってきたという、まぁ素晴らしい素晴らしい感じですね、 これも三下がりの信心がまだどうか知らんです。久留米の三橋先生なんかは「三下がり」とおっしゃった。もう実にそのなんて言うんですかね、まぁ(水神?)でした。ですから信心もなかなかその(すい?)な先生でした。先生が御結界に座っとりますともう、 御結界に座って御理解頂んだけでも皆がおかげ頂くっちゆうような感じの先生でした。 いわいる三下がり的信心をなさった。ね。いかにも合楽の、当時は椛目ですね。椛目の お広前に集まっておる者がです、それぞれ違う信心をしとる。それはもう百人百様なのだ。ね。けれどもです、けれどもその、この一の糸っていうね、三味線のコードの一の糸。 ニの糸、三の糸。ね。3本の糸に、ニを上げた、上げて調子があったのを「二上がり」 三の糸を下げて調子があったのを「三下がり」と言う。本調子というのが、いわいるニの糸をずーと下げて一の糸に合わせた調子を「本調子」と言う。ね。 けれどもその三人三様皆さんが先生がそのそれぞれの信心を、銘々の性格を生かしての 信心が出来られた。けれどもです、一の糸の基準になるもの、これにはいつでも合っておったという事。一の糸に。三味線は調子合わせる時に一の糸が基準になるのです。ね。 一の糸が調子があわなければニも三も合わせられない。そこでお互いが二上がり的な人は二上がりの信心を、三下がりの人は三さがり的な信心をそこから頂いていきゃええのだけれども、ね。基本になる一の糸と、例えばここんとこの信心を間違えたら、そう狂いに、狂うてきます。命令なんか絶対に入れません。一の糸に合わせなかったら。っと言うようにです。ね。今日は私は玉水さんのお話をしましたけれども、玉水先生の信心の調子に 合わせたところでここではおかげになりません。ではやはりここで私が貯金とかして頂いておる事。その調子に合わせなきゃならん。そこで、んならこのような場合には親先生 ならどうなさるであろうか、いやそれもです、私の信心の一つの現われというものがですね、おかげに実証されてくる。いうなら無限大のおかげにお繋がっておる。ね。 ならばです。私の信心の調子は狂っていない時であるから、私の信心に合わせて間違いない時なんだ。私が(?)ように、私がおかげを落とした時にはもう一の糸の調子が狂っておる時であるから、これはダメ。けれども私の信心を見て下さって、私の頂いておるおかげを皆さんが感じてくださる。「はぁーああいう信心からこそ、ああいう無限大に繋がる無尽蔵のおかげが受けられるんだなぁー」と言う事が皆さんが分かって確信がでけたら、どーうでも、親先生の信心に調子だけは合わせなければダメです。○どんなに素晴らしい信心であっても、ね。ここで御縁を頂いておる人はこの一の糸に合わせなければ、そして、なら二上がりもよかろう三下がりもよかろう、本調子も良かろう。ね。ここのところの、信心を忘れてはならないという夕べの御理解でした。ね。ですから今日の御理解からいうと、「はぁ、先生はこういう時にどういう風にされるで、あっこういう時にこそ親先生はいよいよ神の杖をつきなさるんだなぁ」という風にです。○それをどういう風に使えるかという事を皆さんが目の当たりに見たり聞いたりしておるから分かるでしょうが。 それを自分かってな事をするところにです、金の杖をつけばまがる、竹や木は折れてからガッかりしなければならん。いつまでたっても楽にならん。 神の杖をつけば楽じゃとおっしゃるのに楽にならん。ね、楽にならなかったらいつまで たっても、神様も楽になってくださらない。ね。本当の合楽的おかげになってこない。 ね。どうぞ一つ合楽のおかげを頂かせて頂く為に、ね。いよいよおかげを頂かせてもらわなければならない。ね。そして改めて私は思わせて頂く事。先月から(?)先生がみられた時に、○ここに書いてある、ここに軸かかっております、ね。「信心は御用なり」 「芯は力なり」もういよいよこの言葉の素晴らしいことが分かってまいります。 ね。信心は、ね、御用すりゃ助かる。そういう意味の御用じゃないですよ。ね、 本当に今日は私がいうところの真の御用ですよ。ね、「信心は御用なり」そういう信心をさせて頂くから力ができるんです・・・ね。信心は御用なりこれは久留米の佐田さんが 頂いておられのを今日(?)がでけたからと言うて見せて下さったから、私は夕べココに掛けさせてもらったんですけれどもね。私はココに掛けさせて頂いとるような事なんか 全然今日は忘れてしもうとったんです実は。ね。けれども神様から頂いたのと、これが あるけん、これの話をしたっちゃないです今日私実は。うん。けれども改めて思わせられることはです、なるほど「信心は御用なり」「芯は力なり」という事になってくるように思うのです。ようにじゃないそうだと私は確信いたします・・・どうぞ。 けんいち